田中角栄・昭和の美しき狼たち

投稿者: | 2019年2月1日
 美樹本千晴・ご挨拶

 田中角栄の生立ち・経歴

生年月日:1918年5月4日
出生地: 新潟県刈羽郡二田村(現:柏崎市)
出身校: 二田高等小学校卒業

小学校卒業まで
新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現:柏崎市)に父:田中角次、母:フメの二男として生まれる。

ただし、長兄は夭逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった。
田中家は農家だが父:角次は牛馬商、祖父:田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。
母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという。

幼少年時代に父がコイ養魚業、
種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。

幼いころジフテリアに罹患した後遺症で吃音症を患い
浪花節を練習して矯正した。

1933年(昭和8年)、
二田高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業。

15歳で上京
1934年(昭和9年)3月、「理化学研究所の大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、
それを機に上京する。
だが、東京に着いてみると書生の話は通っておらず、
やむなく仮住まい先としていた
井上工業に住み込みで働きながら、
神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う。
卒業後の田中は土木工事の現場で働くが1か月で辞め、
その後柏崎の県土木派遣所に勤めた。
その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いた。
一時は、海軍兵学校入校を目指して
研数学館や英語学校などにも通ったが、
旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という。
母の病気の報せを受けて実業に志望を変えた。

1936年(昭和11年)3月、中央工学校土木科を卒業し、
建築事務所に勤めるようになるが、
事務所の主催者が軍に徴集されたため、

1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する。
これに前後して、
日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから
知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた。
この頃、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校(1936年商業4年修了)にも籍を置き、商事実務を学ぶ。

1938年(昭和13年)、
徴兵適齢のため受けた徴兵検査で甲種合格となり、
現役兵たる騎兵として陸軍の騎兵第24連隊への入営が通知される。

1939年(昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く。
軍隊時に早稲田大学の「建築に関する専門講義録」を入手し勉強に励む。
入営当初は内務班での私的制裁を古兵から受けたが、
夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、
部隊内の事務や能筆といった技能により、
上官に一目置かれるようになった。

1940年(昭和15年)3月、入営から1年で陸軍騎兵上等兵となる。
しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、
翌年2月内地に送還される。
治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、
翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、

1943年(昭和18年)12月に、25歳で土建会社を起ち上げる
事務所を改組して田中土建工業を設立した。
理研コンツェルンとの関係も復活し、
理化学興業(ピストンリング製造、現リケン)などから仕事を請け負う。
田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった。

田中角栄を政界に送り込んだ人物は誰だ?

昭和20年戦争が終わった直後に日本進歩党(にほんしんぽとう)従二位の大麻唯男(おおあさただお)が角栄を訪ねて来た
日本進歩党(にほんしんぽとう)は、終戦直後に結成された保守政党(1945年11月16日 ‐ 1947年3月31日)
大麻「君、いくらか出してくれないか?」
角栄は快く承諾した
それから半月ほどして大麻さんから

「今度の選挙に立候補しないか」っと言う話があった

大麻が田中の所に来たのはお金があるだろうって
無ければ献金のしようも無い
後から御礼も含め「出馬しない」って言われるくらいだから相当な額だったと???
微々たるカンパだったら無理‼️
政界に誘われ無い‼️

何故、角栄は戦後直後これ程のお金を持っていたのか?


理化学研究所 通称:理研
軍事物資を作る工場をいくつも持っていた
角栄の会社は理研から次々と請け負い業績を伸ばした
ピストンリングの移籍工事
だが、、、決して大きくわ無い田中土建工場が何故?
このような仕事を手にできたのか?

理研幹部:星野一也
角榮と同じ新潟県柏崎市出身
昭和20年(1945)2月
東京の工場からピストンリング工場を移す仕事
工場を大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、移す先、朝鮮半島に渡る。
誰もが尻ごみするなか
角栄は手を挙げた

総額2,400万円(当時)
今で換算すると約150億円の仕事が田中角栄に転がり込む
たまたま新潟湾に停泊していた駆逐艦(くちくかん)に積み込んで運ぼうとした
角榮は朝鮮に上陸したが請け負った工場建設は幻に終わる
8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、
降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した。
昭和20年(1945)8月15日終戦
田中土建工業は戦災を免れる
だが、星野は「そんな訳がない」と、、、、
星野さんいわく、、、、
8月15日に戦争が終わって
8月26日に角榮は東京に帰って来ている
この時代だから直ぐにテジョンからソウルまで車で走らせて
ソウル(京城)の銀行で軍票を直ぐに現金に換えた
星野さん達が振り込んだ工事の額は全体2,400万円のうち1,500万円分
軍票として渡してあるのでそっくり落とせば現在の価値で約90億円の現玉を待っていた
角榮が政界に出たきっかけは朝鮮の工事代金の1部の可能性が高い
角栄は金権政治と言われたけれど
決して彼は、人の金を騙してとかでは無いんだと
自分の才覚と後は運があって
得たお金を政治活動に使っている
私腹を肥やす為には使っていない
っと言うのが星野さんが許した所
人に迷惑をかけて金を作る事はしなかったと
「俺は信じている」っとずっと言っていました
「だから許せるんですよ 何十億入ろうが」

 田中角栄がヒーローになった理由とは

27歳、終戦後、昭和21年(1946)

初出馬、立候補したが落選

翌年再び立候補
演説

親が親達が我々の為に汗を流してくれたように
我々も子供達の為にもうひと汗を流そうという考えのもとに初めて理想的な日本を築き上げられるものです

戦争もやってきたじゃあないですか
大地に叩きつけられて
戦争と言うものを
どんなに辛いものだったかと骨の髄まで知った日本人じゃあありませんか
皆さん
その日本人が全世界に平和を求めて
新しい日本を作ろうとしておるんです


良く使っていた言葉が,
「ねぇおっかさん!」
「 ねぇおっかさん!」
っと言う語りかけ
聞き行った人の心をつかむ演説衆議院議員
選挙区:新潟県第3区
当選回数:16回
在任期間:昭和22年(1947)4月26日 – 1990年1月24日
が、、、、、
ピンチが来た獄中立候補(ごくちゅうりっこうほ)とは刑事施設にh勾留中に選挙に立候補をすること炭鉱国管疑獄(たんこうこっかんぎごく)は、戦後の1947年から1948年に起きた汚職事件である。田中角栄、昭和24年(1949)衆議院議員総選挙(炭鉱国管疑獄、選挙中に保釈、1951年無罪確定)
入内島 金一(いりうちじま・きんいち)
上京以来の親友で田中建設の幹部でもあった
金一も収賄(しゅうわい)容疑を受けたが一足先に釈放され
角榮を無実だと演説を始めた
「角榮が有罪だったら私は嘘をついている事になるから
その時は腹を切る」っとまで言った
何故、金一は角栄にここまでして、、、2人の絆とは?
戦時中、兵役(へいえき)ついた金一に見合いの話があった時に
角栄は代わりに群馬まで足を運んだ
相手に会って縁談をまとめたと言う
しかも、
花嫁の弟が戦死した時は、家族に宛てて悔みの手紙を書いた
たった1度しか会っていないのに
これだけの気配りをした

金一は感銘を受けた
角栄も保釈されたが当票日までわずか10日

長岡市三島谷
恵まれた関東ばかりに予算を積み込むのでは無く
裏日本の恵まれない地域を関東並みに引き上げて
それで国全体を良くするんだ
日本に田舎を無くす
「とにか道路を良くする」

希望がある演説

きっと何かをやってくれる

自分達の為に何かやってくれる

だからみんな期待した

2代目会長

田中角栄と言う政治家を札(ふだ・票)で使った

働かせてやればいい

地域が良くなる為に当選させるだろう

ダメだったら、落とせば良いんだから

よその地域も政治家を使えば良かったんだ

当選させて「おい! 先生、何もしなかったら次落とすぞ」

上手く使ったしなぁ角榮も俺らを
うまく行けば行くほど魅力にはまっていくんだから


この男なら命かけて良いなっと
格差を超えたいと言う節ぜつな思いが人々と結びつけた

元朝日新聞記者はこう言った
越山会は後援会では無くて民衆の共同体
自分達が主役
田中角栄はその中心で、東京と政府とのセッション役

第12代 郵政大臣

在任期間:1957年7月10日 – 1958年6月12日

第67-69代 大蔵大臣

在任期間:1962年7月18日 – 1965年6月3日

第33代 通商産業大臣

内閣:第3次佐藤改造内閣

在任期間:1971年7月5日 – 1972年7月7日

昭和58年(1983)ロッキード事件の直後の選挙でも22万票当選


官僚までも魅了した
そして、、まだまだ続く、、、
ことの発端は
佐藤栄作が退き後継者争い

田中角栄総裁選挙の戦略


田中は最終学歴について「中央工学校」卒と公称することが多かった。
しかし、現在の中央工学校は専門学校として東京都から認可を受けているが、
専門学校を含める専修学校は1976年(昭和51年)に創設された学校制度であるため、
彼が学んだ当時の中央工学校は学校制度上の学校ではなかった。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。
小学校時代から田中は勉学に優れ、
ずっと級長をしていたという。
高等小学校の卒業式では総代として答辞を読んだ。

各派閥の国会議員がその党員必ず連れて来れるように努力する
《ホテルに囲う》
総裁選挙前日は、格都道府県から投票権利代表が来る
最後の票固めに入った

第64-65代 内閣総理大臣
内閣
第1次田中角栄内閣
第2次田中角栄内閣
第2次田中角栄第1次改造内閣
第2次田中角栄第2次改造内閣
在任期間:1972年7月7日 – 1974年12月9日

ライバル福田赳夫・元秘書佐藤静雄はこう言った

何かをやりそうだとそんな気がした

あぶらぎってやる気満々

庶民的な人→庶民の仲間って感じ

驚きと期待感


福田先生は田中角栄を

今太閤

イマタイコウとは
立身出世して最高権力者となった人をいう。
太閤(たいこう)、正式名称太閤下は、摂政または関白の職を子弟に譲った人物を指す。
敬称は「殿下」であり、呼びかけの場合は「太閤殿下」となる。
田中角栄に負けたのは「金をやらないそうなった」っとずいぶんと言われた
噂では1人1,000万円時事記者は見た田中邸からトランクが運ばれたのを見た人がいる
三木派だったり、中曽根の所に行った 

 田中角栄が形として残した物

議員立法、生涯で40

その1つに東京タワー

建築基準法により工事が中断その時角榮は

「君、建築基準法をつくったのは私だ。テレビ塔は広告塔であって、一般の建物ではない。高さ制限の対象にはならないだろう」

「東京タワーは建築物ではなく広告物である」

担当大臣田中角栄は官僚の反対を一蹴(いっしゅう)し

一気に免許を交付(こうふ)した

1958年(昭和33年)にわずか1年半の工期で東京タワーは完成された


なぜパンダが日本に中国から来るようになったか。
田中角栄首相のおかげです。
中国では、田中首相を日中の新しい時代を開いた「井戸を掘った恩人」と讃え、学校で教えています。
だから中国の若者はみな田中首相を知っています。

1972年7月に首相に就任すると、
9月には中国を訪問し毛沢東に会い、周恩来総理と交渉し日中共同声明を発表してしまいます。

「日本は戦争を通じて重大な損害を与えたことについて責任を痛感し、深く反省する。」

「中華人民共和国政府は、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する。」
こうして日中の新しい時代は始まりました。

そしてその友好の使者として、

1972年の10月に2匹のパンダ、カンカンとリンリンが日本にやって来たのです。

「井戸を掘った恩人」は、日本の司法と外交当局により意図的に忘却させられています。


1942年(昭和17年)3月に
事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した。
家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。
同年11月に長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、
1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。

配偶者:田中はな (妾):辻和子

子女
長男:田中正法
長女:田中真紀子

もう一人の長男:田中京
もう一人の二男:田中祐

2兎追う者は3兎追える



田中角栄二兎追う者は三兎追う

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